1回目の体外受精

生理3日目に行き、
ホルモン検査後、
クラミッドを1錠ずつ服用する事に。

その5日後にホルモン検査に行くも
「卵が育っていない」と言われ、
1日おきに注射をしに行きました。

今度は卵が大量にできてしまったということで、
採卵し受精後、凍結させることになりました。

Kクリニックは、採卵時の針がとーっても細いため、
通常は麻酔などはせずに行うのだそう。
私の場合は卵の量が多く、全部を取得して凍結させるので、
局所麻酔をする事になりました。

1回目の体外受精は採卵の前々日、
24時に点鼻薬で採卵を促すことから始まりました。

前日、16:20 に病院へ電話をし、時間、費用、持ち物を聞く。
18:00、24:00 に座薬を入れ、
朝 9:30 に彼の精液を持って病院へ。

病院では 10:30に採卵開始。
局所麻酔後、右側から採卵をしました。
右側が恐らく10個。
左側が14個くらいだったと思います。

採卵の時は、多少の痛みはあったものの
耐えられる範囲でした。
たぶん、普通は相当痛いらしく、看護師さんには
「痛みに強いのね」と 感心されました。
でも・・・ 終わった後が痛い。

麻酔が切れてからは、痛くてまっすぐ座れないほど。

その後、培養士さんとの面談があり、採れた卵について説明を受けました。
5つの成熟卵 3つの未成熟卵 1つの完全未成熟卵がありました。
5つの成熟卵はすぐに受精させ、1つはすぐに凍結。
残りは胚盤胞まで育てて凍結させるとのこと。
(胚盤胞を移植したほうが着床率が高いそうです。)

とにかく痛い。
でも赤ちゃんを授かるため。
と思ってとにかく耐えました。

その後、培養させている卵の様子を聞くため、
数回、病院へ電話をし確認をしましたが、
結局、 1つは分割卵に成長し凍結。
1つは胚盤胞まで成長したので凍結していただきました。

この胚盤胞まで成長した卵を翌月の排卵日に移植をしました。
移植はカテーテルを入れた時に
少し痛みがありましたが
卵を戻す時には痛みはなく、
画面も見ることができたので、
「おかえり〜」と心の中で言っていました。

約1年前にお空に帰ってしまった赤ちゃんが戻ってきてくれればいいなぁ
と願いつつ、判定日を待ちましたが、
結果は陰性。
着床すらしなかったようでした。

まだ始まったばかりの体外受精、
でももう心が折れそうに・・・

こうして初めての体外受精が終わりました。

妊活の再開

退職後、自宅で仕事をしながら妊活を送っていました。

今思うと、結構頑張って妊活していたと思います。
体外受精にも3回チャレンジしました。

体にもすごく気を使っていました。
もともと冷たい飲み物は苦手で、
毎日白湯を持ち歩いて飲んでいましたが、
家でも冷たいものは飲まず、
早寝早起きを心がけ、
太らないように適度に運動をしたり、
葉酸のサプリも毎日欠かさず飲みました。

そうそう、
この頃から漢方薬も飲み始めました。
近くの漢方薬局に行き、
調合してもらい、
朝晩、毎日飲みました。
漢方薬局の先生はとても優しくて、
「絶対授かりますよ。」
といつも励ましてくれていました。

この時、すでに42歳。
タイムリミットが近づいていると、
だんだんと焦りを感じ始めていました。

そんな時にずっと通っていたネイルサロンのオーナーさんに
不妊治療の病院、
西新宿の「Kレディスクリニック」
を紹介していただきました。
Kレディスクリニックは不妊治療では有名で人気のクリニックです。

待ち時間が長いとか、
先生が事務的とか、
色々お話は聞きましたが可能性は広がる。
しかも体外受精で使う針は細くて痛みが少ない。

初診は44歳までと制限があるそうなので、
藁をも掴む気持ちでクリニックに行き、
検査を受け、私も主人も異常がない事を確認し、
すぐに1回目の体外受精をする事になりました。

心境の変化

それから5ヶ月後、私は会社を辞めました。

今までも辞めたいと思ったことはたくさんありましたが、
仕事が決して嫌いではなかったことや
お給料にも不満がなかったこともあり、
辞める、という一歩を踏み出すことはできませんでした。

でも、この時は
また赤ちゃんを授かることができるように、
また、できた時のために心も環境も整えたい、
という気持ちが強く、
迷うこともなくするっと
「会社を辞めよう」
と決意しました。

ちょうどよかったのは、
その時の上司との関係性が良くなかったこと。
なんの未練もなく、憑き物が取れたような気持ちでした。

あんなに辞めることに抵抗を感じていたのに、
なんの戸惑いもなく、あっさり辞めるなんて
自分の心境の変化にも驚きました。

自分を責める

手術後、これまでの日常が戻ってきました。
ただ、私はなかなか立ち直ることができず・・・。

同じ境遇の子と慰め合って
少し気持ちが楽になって、
また落ち込んで・・・
の繰り返しでした。

他のほとんどの子は何の不安もなくマタニティ生活を
送っているのに私は・・・
なんで私ばっかり・・・。
私の何が悪かったんだろう・・・。
やっぱり年齢だろうか・・・。

この頃の赤ちゃんが亡くなってしまうのは、
お母さんに原因があるのではなく、
遺伝子異常だといいますが、
私は自分を責めては泣いていました。
同じ経験を持つ方は多くの方がそうなると思いますが・・・

気持ちが落ち着かず、
何かにすがりたいのか、
気持ちを誰かと共有したいのか、
整理したいのか・・・
よくわかりませんが、とにかく本を読み漁りました。

読んだ本は、「子どもは親を選んで生まれてくる」や

 高島彩さんの「彩日記-Birth-」などです。

そうして少しずつ気持ちが落ち着いてきました。

悲しい手術

その数日後、流産の手術をしました。

手術の説明書には
「流産手術(子宮内容除去術)」
と記載されています。

「子宮内容除去」って・・・
私たちが授かった大切な命が
こんな言葉でいなくなってしまうなんて・・・。

思い出すと本当に辛く、悲しい。
手術はあっという間に終わりましたが、
前日に入院し、産道を広げる処置や、
その後の熱を伴う痛み、
本当に痛くて悲しい手術でした。

しかも、病室は個室をお願いしましたが、
同じ病棟には、出産した、もしくは出産を控えた方が
入院されていて、まさに明暗。

それも辛い入院でした。

悲しい結果

7月下旬、3回目の検診に旦那さんと行きました。

検診の結果、先生から
「赤ちゃんの心拍が聞こえません。」
と告げられました。
ただ、一回で、しかも一人では判断ができないとのことで、
3日後、また診ていただくことになりました。

この3日間は、間違えであって欲しいとずっと祈っていました。
もちろん、会社にも行き、普通の生活をしながらですが。

悲しいことに赤ちゃんが動かなくなっても、
お腹にいることでつわりはあるそうで、
変わらず気持ちが悪い日々・・・。

3日後の検診でやはり赤ちゃんが育っていない、
という診断に。
稽留流産であると告げられました。

手術に関する説明を主人と聞きながらも、
私は涙が止まらず、先生の話もただ、
言葉が流れている感じでした。

ただ、印象に残っているのは、
40を過ぎてからの妊娠の確率は50%。
妊娠の継続の確率はさらにそこから50%。
「この年齢で妊娠されたということは、
奥さんの子宮はまだ若い方だということでしょうね」
と当たり前ですが、たんたんと告げられました。

旦那さんが
「先生が立ち会った出産で最高齢は何歳ですか?」
と聞くと先生は
「43歳ですね」
と答えていたことを覚えています。

すごく無機質な言い方にショックを受けました。
43歳なんてもうすぐじゃん。
もう時間がないじゃん、
このまま産めないんじゃないか・・・。
なんでお空に帰っちゃったんだろう・・・。
何が悪かったのだろう・・・。
とそんなことをずっと考えていました。

そして悲しい手術をすることなりました。

周りの反応

妊娠は上司と本当に仲の良い子だけに伝え、
他の人には言わずにいました。
が、つわりがひどかったので、
きっと周りの人もわかっていたと思います。

しかも同じ会社にいた旦那さんは
すごく嬉しかったみたいで
なんとなく、子供ができたっぽいことを匂わせていたし。

友達も後輩も、私が子供を欲しがっていたことを知っていたので、
みんなすごく喜んでくれて。
親友からは「安心のマタニティブック」を プレゼントしてくれました。

また、昔、一緒に占いに行った後輩は、
「42歳で子供ができる」
と占いで言われていたのを覚えていてくれて
「占い、ほぼ当たりましたね」
と喜んでくれました。

そして次の検診の日、
私はいつも通り旦那さんと病院に向かいました。

初めての妊娠

最初は、なんだか体調が悪いなぁと感じていたのと、
基礎体温がずっと高温期だったので、
もしかして・・・と思い妊娠検査薬でチェック。
陽性反応が出て、旦那さんとまさに手を取り合って喜びました。

病院で検査した結果、妊娠2ヶ月。
親友にすぐに電話で報告しました。
親友の声を聞いたら、嬉しくて電話でも泣いてしまって・・・。
言葉にならなかった。
そのあと、自宅で母にも泣きながら報告しました。

この時の私は
妊娠したことの喜びを感じつつ、
仕事もいつも通りに出勤し、仕事をこなし、家に帰る、
という毎日でした。

でも、だんだんとつわりがひどくなり、
上司に相談、時短勤務 (出勤時間を1時間遅らせる)にさせていただきました。

私は金融機関でIT部のマネージャーをしていたので、そこそこの激務。
また役職もついていたこともあり、具合が悪くても休みにくい、
遅刻もしにくい、と自分自身が精神的にも、肉低的にもきつい状況に陥っていました。

直属の上司は男性。
しかもあまりいい関係性ではなかったので、
弱いところをみせることも、
助けてもらうこともできず、
毎日が必死、という感じでした。

それでも、かかとの低い靴(このときはほとんど持っていませんでした)を買ったり、
お腹周りのゆるい、ウェストがゴムになっている服を買ったりと
幸せな気分で買い物をしたのを覚えています。
なんとも見た目から入る?的な妊婦生活のスタートでした。

2回目の検診でも問題なく、
ここまでは順調に育っているようでした。

タイミングは3日頑張ること

久々に会ったBちゃんは二児のママ。

Bちゃんも不妊に悩んで、ゆるい人工授精を試していたのだそう。
特に二人目はなかなかできなくて・・・と。
どんなことをしたのか、
費用はいくらくらいかかったのか、
など、この頃の妊活事情を教えてくれました。

私ってホントに無知なんだなぁ・・・と思うことばかり。
どこの病院は、体外受精で双子のできる確率が高いらしい、
とか
人工授精や体外受精でも病院によってやり方が違う、
などなど。。。

排卵検査薬の存在もこの時に教えてもらいました。

みんな頑張ってるんだなぁってしみじみ感じたのと、
私も頑張ろう!!とすごく思いました。

それともう一つ、
タイミングは3日、頑張ること!
「Yちゃん3日だよ!」
これが合言葉のようになっていました。

タイミングは3日、頑張ること!
それからタイミングを取るときには3日頑張りました。

そしてとうとう、妊娠することができました。
私が41歳と8ヶ月の時でした。

気持ちは焦っていても・・・

それから気持ち的には焦り出して、
彼とも真剣に話し合うようになりました。

結婚式、仕事、旅行・・・
優先順位をつけつつ、
基礎体温を見ながらタイミングをとって行くことにしました。

恥ずかしながら、
排卵検査薬の存在をこの時には知らなかったので、
ルナルナに基礎体温を登録し、タイミングをとる時期をみていました。

その後、結婚式が終わり、
新婚旅行にも行き、
仕事もして、
タイミングもとって・・・。
という日々が続いていきましたが、
一向に妊娠せず、気持ちばかりが焦っていました。

でも、今考えると、本当に焦っていたのかなぁ?
と首をかしげますが、
自分的には焦っているつもりでした。

いつもなんだかもやもやした感じ。
このままでいいのかなぁ。
本当に赤ちゃんってできるのかなぁと・・・。

このもやもやした気持ちを聞いてほしい!
久々にBちゃんに会いに行きました。